2010年2月20日土曜日

水戸弘道館・梅と幕末


▲偕楽園、紅梅

あたたかな土曜日でした。
今日から梅まつりとのことで、9時すぎに出発して水戸方面へ。
常磐道・水戸北ICのETC出口から118号で水戸市街へ入ります。渋滞もなく弘道館に到着。水戸市街入りはこのルートが便利です。

▼弘道館正門前に駐輪
弘道館、敷地裏の梅は以前見に来たことがあるんですが、中には入ったことがありません。今日は入場料190円を払って見学。

弘道館は徳川斉昭が水戸藩の藩校として建てたもの。

武家の学校なので凛としていながら、
もちろん和風なのでどこか落ち着きます。

▼玄関すぐに「尊攘」。すなわち尊王攘夷
▲畳縁は葵の御紋

徳川斉昭(なりあき)、NHK大河『篤姫』でいえば江守徹さんがやっていた役ですね。才気あふれ幕政でも権力を持っていたけれど、井伊直弼(中村梅雀さん)と対立して水戸に蟄居されられるのが斉昭。例の黒船来航後の将軍継承と攘夷開国をめぐる対立です。開国の井伊直弼が南紀派・攘夷の徳川斉昭が一橋派。

斉昭はたしかに多方面の才能があったようで、ここ弘道館も偕楽園も斉昭のプランニングによるもの。弘道館と偕楽園にたくさんの梅があるのも斉昭の趣向。春の魁(さきがけ)として花を咲かせ、梅干という保存食にもなる梅を、斉昭は好んだようです。

弘道館の展示物には、斉昭が当時の列強対策として考案した「潜水艦」の設計絵図なんてものもある。黒船撃沈の秘策ですね。一橋派が実権を握っていたら、実際に建造されていたかもしれない。

▼斉昭考案の潜水艦絵図
ちなみに斉昭は生涯に37人の子(22男15女!)をもうけています。殿様の大事な務めとはいえやはり相当な好色家であったらしい。江戸城大奥が井伊直弼の南紀派を推したのは、斉昭のあまりの好色ぶりを嫌ったからとか。

やがて桜田門外の変で井伊直弼が討たれ、
その同じ年に斉昭も水戸で死去。

7年後、幕末の動乱を経て、
斉昭の子・慶喜が最後の征夷大将軍になる。

しかしもはや攘夷の潜水艦どころじゃない。
大政奉還、鳥羽伏見、無血開城。
返還、退却、幕引きが徳川慶喜の役回り。

▼カメラ好きだった慶喜
無血開城後、慶喜が謹慎した部屋
「至善堂」も弘道館にあります。

慶喜が江戸の寛永寺を出て
水戸に向かったのは1868年5月3日。
黒船来航からたった15年後のことです。
幕府を終わらせることになった慶喜、
いったいどんな心境でこの座敷に起居したのか?

▼慶喜が恭順謹慎した部屋・至善堂
とまあ、
しばし意識を幕末にタイムスリップさせて
世の変転の激しさを実感するにはよい場所です、弘道館。

斉昭が愛でた庭の梅の花は、ちらほら。
寒中から咲く黄色い蝋梅はすっかり開いていました。

▼玄関脇の蝋梅(ろうばい)
▲庭の紅梅

つづいて偕楽園へ。
いつも思うんですが、偕楽園のあたりは
東京(江戸)の上野公園と雰囲気が似てますね。
不忍池のかわりに千波湖、
桜ではなくて梅。
斉昭が意識していたのかどうか。

▼偕楽園から千波湖を
千波湖の対岸には映画『桜田門外の変』(主人公の水戸藩士に大沢たかお、井伊直弼に伊武雅刀、斉昭は北大路欣也というキャスティング)のオープンロケセットが出来ています。今回は足を運びませんでしたが。
(大沢たかおさんは『仁〜jin』に続いての幕末もの。昨秋には発表直後のCB1100に試乗して開発者と対談する動画もホンダのサイトで公開されてました。かなりのオートバイ好きだそうで)

偕楽園には開花した梅もあったものの、全体としてはまだまだ。
駐車場にも「三分咲き」と張り出してありました。

水戸の梅、満開にはもうすこし、です。

▼偕楽園は三分咲き

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