2010年5月11日火曜日

古い町並・飛騨高山と合掌集落


(続きです)
飛騨高山に1時30分に到着。
高山陣屋の近くにオートバイがたくさん停っていたので一緒に駐輪させてもらい、さっそく街歩き。

宮川にかかる中橋を渡って三町(さんまち)の古い町並みへ。飛騨の街は宮川を加茂川に見立て、京都をまねて設計されたらしい。

古いつくりの商家が続く三町。賑わってます。外国人観光客も多数。酒屋、呉服屋、醤油や味噌、みたらし団子の店など。蕎麦、みたらし団子一本をいただく。醤油が香ばしい。




しばらく歩いて高山陣屋前の広場で休憩。

駐輪場所に戻ると、すぐ前が日枝神社の御旅所。本宮は市内城山にある神社。

高山といえば春の山王祭、秋の八幡祭が有名。このうち春の山王祭が日枝神社の例祭。からくり屋台は御旅所の前で奉納される。

近くには木鶴に乗った伝説の匠・韓志和(からしわ)の像。

この人物は唐に渡り皇帝につかえた木工の名手で、からくりを仕込んだ猫はネズミを捕らえ、ゼンマイ仕掛けの鶴に乗って空を飛んだ。唐の『杜陽雑編』に出てくるお話。

飛騨の匠といえば、法隆寺釈迦三尊像を彫った止利仏師(鞍作止利)が飛騨の匠。日光東照宮の眠り猫で有名な左甚五郎も「飛騨の甚五郎」という技術者集団だという説も。

奈良時代には租庸調の税のうち飛騨だけが庸と調を免除され、かわりに建築技術者を都に送っていたらしい。それほど飛騨の技術は評価が高かった。

おそらく律令国家以前の古代から、飛騨には独自の技術文化圏があったのだろう。匠というと職人的な手技ばかりをイメージしてしまうけれど、建築技術は高度な文化を背景にしているもの。精密な工具製作技術はもちろん、測量・方位・天文、都市計画、物資と人員のロジスティクスなどの総合技術なしには成立しない。飛騨の良質の檜と豊富な鉱物資源、鉄の加工技術などを基礎として、大和とは異なる古代飛騨文化圏が存在したのでは(……と想像)。

高山を3時に出て東海北陸自動車道を富山方面へ。

東海北陸自動車はトンネルが連続する。
老眼進行中の身にはトンネル出入の急激な明暗転換が意外にキツい。瞳孔調節機能が低下(カメラでいえば絞り羽根の粘り)しているので、光量の過不足を脳内の後処理で頑張って補整しているのだと思う。アタマが疲れます。

高速を50キロほど走って五箇山IC。ここから金沢まで約50キロ。
ふたつの合掌集落に立寄りながら走ります。

R156ですぐの菅沼合掌集落へ。
菅沼には合掌造りの家屋が九軒。
テーマパークじゃなく今日も生活が営まれている一般家屋です。



合掌集落というと穏かなイメージだけれど、江戸時代、この五箇山は火薬の原料となる煙硝の産地だったらしい。加賀藩の直轄事業としてこっそり煙硝がつくられ金沢へ運ばれていた。煙硝をわざわざ「塩硝」と記したのも秘密主義からとか。

冬は豪雪地帯で外界から隔絶したこの土地が、火薬密造には適していたのだろう。

「塩硝の館」にはそういった展示がされている。知らなかったけれど、煙硝はヨモギや鶏糞を熟成発酵させてつくるんですね。堆肥と同じ。いや食品の発酵も同じ。山深い農村の発酵技術が火薬製造に活かされた。

R156を走って5時すぎに相倉合掌集落へ。この間は渓谷ときれいな橋が続く道。相倉のあたりでちょっとした山道になる。

相倉合掌集落は菅沼よりも規模が大きい。集落内の民宿前にはたしか京都ナンバーのNinja250Rが停っていたっけ。




相倉からはR304で金沢へ。

五箇山トンネルを抜けると富山の平野を見渡せる。ひさしぶりの平野の風景。こうして走ってくると日本は山地が多いことを実感。

夕暮れのR304を走って金沢大手門のKKRホテルに6時30分着。この日は素泊まりで5500円。駐車場内の自転車スペースにオートバイを駐輪できます。

高速道路を290km、下道を160km。あちこち立ち寄りながら、なんとか金沢に無事到着できました。

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